復興支援から都市再生まで。10年で体験した幅広い“まちづくり”から、未来へと繋ぐもの:(第1回)「#まちづくりの達人」
UR都市機構(以下UR)は、昭和30年からさまざまなステークホルダーとともに、時代ごとの変化や多様な社会要請に応え、安全で安心、快適なまちづくり、そしてくらしづくりに取り組んできました。これからも「人が輝く“まち”」に貢献するために、令和4年からは「社会課題を、超えていく。」というメッセージを掲げています。
この「社会課題を、超えていく。」ために、URにはさまざまな分野で活躍する職員がいます。全3回の連載でお届けする「#まちづくりの達人」では、URを支える彼らのまちづくりに対する情熱と将来への展望を紐解きます。
第1回に登場するのは、平成27年にURに入社し、現在は、都市再生部 事業企画室 事業支援課で主査を務める羽島愛奈です。
東日本大震災で女川町を訪れたことが入社のきっかけに
横浜・馬車道に、URの本社はあります。入社10年になる羽島は現在、この本社の都市再生部 事業企画室に所属しています。
URに入社するきっかけは、平成23年3月11日に起きた東日本大震災でした。発災当時、東京の大学で建築を学んでいた羽島。当時、実家は宮城県にあり、幸いなことに家族や実家には大きな被害はなかったものの、甚大な被災状況を見聞きするたびに心を痛めていました。羽島は復興のために自分ができることを考えながら、大学の研究課題として宮城県の女川町を訪ねるようになります。
「漁村集落の生活行為や集落・住居空間の構成をテーマに、町の人に住居形態や集落空間の使い方、歴史や生業などについての聞き取り活動を行っていました。そこで女川町の復興を担うURの存在を知りました。それまでは団地のイメージしかなかったURですが、そこで震災復興支援や都市再生を手掛けていることを知りました。女川町を訪れるうちに、専攻していた建築よりも“まちづくり”に興味が湧いてきて、未来を描く“まちづくり”を手掛けているURへ入社を決めました」
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復興支援本部での怒涛の2年間と、“開発しない”超都心のまちづくり
面接で震災復興支援事業に関わりたいと強くアピールしたことで、宮城・福島復興支援本部の女川復興支援事務所 住宅計画課へ配属された羽島。新卒で現場の復興支援事務所へ配属されたのは、URでは初めてだったそう。災害公営住宅の建設に向けて、自治体や設計者との調整業務を担当することになりました。
「住宅の仕様に関する行政との確認や調整、町民に向けての説明会など、多岐にわたる仕事をこなす忙しい現場でした。離半島部の漁村集落は、以前の集落ごとにまとまって住めるように配慮するなど、町民のみなさんに寄り添ったまちづくりを検討しながら進めていく毎日だったのを覚えています。復興という目標に向かって、URと女川町が一丸となって一直線に突き進んだ2年間でした。住居の引き渡しの際、大勢の方から『ようやく自分の家に住める。本当にありがとうね』と感謝の言葉をいただいたことは、忘れられない思い出です」
その後、自身の担当業務に一段落ついたことで、平時のまちづくりを経験したいと都心の開発を希望します。平成29年、東日本都市再生本部 都心業務部へ異動。東京都心における再開発や、行政のまちづくりに関するガイドラインづくりの支援、公共空間を使った社会実験などの現場プロジェクトを担当することになりました。
「都市では、ビルを一棟建てるだけでも、防災面、環境面、公共空間や交通などさまざまなことを検討して計画し、建物内だけで完結するのではなく、周辺の市街地へもまちづくりの効果を波及させる必要があります。一地区でいろいろなまちの形を提案できることは興味深かったですし、都市開発の魅力だと感じました」
さらに“開発しない”まちづくりにも取り組みます。江戸開府からの歴史を持つ千代田区や中央区を担当しました。中央区の日本橋横山町・馬喰町の問屋街では、町の人と「大規模開発によらないまちづくり」を実践。また、多彩な個性を持つ神田地区のまちのファンを増やし、より魅力的なまちづくりにつなげるため、「神田警察通り賑わい社会実験2017」を実施。都心プロジェクトでは、江戸の町を愛してやまない町の達人との出会いがありました。
「歴史のある町・神田には、20以上もの町会が存在します。みなさん個性的でおもしろい方たちでした。なかでも、さまざまな取り組みに協力いただいたのが神田で酒屋を営む町会長。いつも神田っ子らしい忌憚のない意見をいただきました。まちづくりを考えるうえで、その後も参考にしています。今でもお付き合いは続いていて、地域の昔話を聞いたり、私の人生相談にのってもらったりしています」
全国の現場を見ながら、20年後を見据えたまちづくりを
そして令和3年からはURの本社で、10年後20年後のまちづくりを見据えた新規事業立ち上げの担当になりました。大都市を中心に、全国での初期段階のまちづくり検討支援、また事業化戦略の検討などを手掛けています。
「URは、現在200件以上全国のまちづくりを支援しています。そのすべてを把握して、現場が問題なく事業が進められているのかを確認し、問題があれば支援策などのサポートを担います。5年間の現場経験が活かせる仕事だと思っています」
本社での新規事業の計画は現場でプロジェクトを担当するのとは異なり、全社経営の視点も必要。最終的にどこを目指すのかを明確にし、実現可能な手法でどのように適切に仕立てるか等の難しさを痛感しているといいます。
「現場にいるときにはプロジェクトに集中しており、経営的な視点で考えることはあまりありませんでした。本社では経営層の意見や視点に触れ、非常に勉強になっています。URは利益追求よりも、社会的意義のある事業を展開できます。そこに大きなやりがいを感じます」
そして全体を包括する立場となっても、現場には必ず出向いていると言う羽島。
「机上だけで考えるのは限界があります。よりよい提案や何か問題が起きたときに解決策を検討するためにも、開発区域だけでなくその周辺の地域を知っておく必要がある。だからどんなに忙しくても時間をつくって現場には必ず訪れるようにしています」
さらに羽島は、能登半島地震に関する支援も兼務。半島という地理的条件や地域で被災状況が大きく異なるために、復興へのロードマップの難易度が高いものの、国などが取りまとめる復興会議にはオブザーバーとして参加しています。「東日本大震災で関わった経験を、能登半島にも活かしていきたいです。URは金沢に石川事務所を開設しており、そこを拠点として能登半島の復興支援も行っています」
社会課題を超えるために、業界外にも目を向けて小さな挑戦を続ける
少子高齢化、都市の一極集中、災害の頻発化や激甚化など。今の時代に生きる人が相対するさまざまな社会課題に対して、URは安全・安心・快適なまちづくり通して、解決することを目指しています。URが掲げるメッセージ「社会課題を、超えていく。」を、羽島はどう受けとめているのでしょうか。
「現代の社会課題は課題がひとつだけではなくて、様々な分野の課題が複雑に絡み合っていますよね。課題解決のためには、分野を横断して考えていく必要があります。そのためには私自身が学びを続けていきたい。とはいえ、一人でできることは限られています。だからこそ業界外にも目を向けて、幅広い知見を持つ人とコミュニケーションをとって、積極的に関わるようにしています」
そのために、羽島は社会人スクールの東京大学の「スマートシティスクール」にも参加。
「仕事では出会えないような多様な分野の研究者の先生や企業の方々から、脱炭素やエネルギー、ビッグデータの活用についての指南をいただくこともあって。一見その時仕事に直接関係しないように見える知識でも、後に役立ったり考え方のヒントを得られたりすることが多くあり、今の社会潮流はできるだけ押さえるようにしています」
社会課題を超えるためには、小さくても挑戦を積み重ねていくことだと話す羽島。「挑戦することを諦めない。常に挑戦と見直しをしていくことで、いつか超えていけるものがあると信じています」
日常に防災を織り込みながら、日本のまちづくりを究めていく
災害復興や都市再生とまちの未来に関わっている彼女ですが、自身の未来像・キャリアをどう考えているでしょうか。
「これからも様々な視点からまちづくりについて考え、提案の幅を広げていきたいです。例えば、道路、広場などの公共空間がもっと自由に使えるようになればいいと思っています。法規制の問題などをクリアするのがなかなか難しいのですが、社会実験などの取り組みを通して居心地のよい豊かなまちづくりに貢献していきたいです」
また旅好きな羽島は、海外のまちづくりにも関心を寄せています。特に、国民の幸福度指数が高い北欧の都市には注目しているといいます。
「水辺の景色が美しいデンマークのコペンハーゲンは、緑の広場や歩きやすい道も多く、散歩しているだけで心地いいまち。多くの人が自転車で移動し健康的で、さらには防災面においても画期的な取り組みを行っています」
コペンハーゲンのヴェスタブロ地区にある公園「インヘーヴパーケン(気候公園)」は、容量22,600平方メートルの貯水スペースを備え、100年に一度の大洪水からも市民を守れるように造られています。通常時は市民が集う公園であるものの、非常時には水が流れ込むように造られた公園が大きな貯水池へと早変わりします。
「普段は豊かな緑やスポーツを楽しめる公園でありながら、100年に1度レベルの豪雨をも貯水できる機能があります。平時は魅力的な公共空間、非常時は必要な防災機能を備えるといったように、機能や空間に可変性・柔軟性を持たせたまちづくりは、日本も見習うべき点があります」
仕事のマストアイテムは、復興支援の証“気仙沼×UR”名刺ケース
羽島の仕事で欠かせないアイテムは、復興支援本部時代に復興に関わる職員に配布された名刺ケースです。
「気仙沼市の魚であるカツオとURロゴがデザインされていて、とても気に入っています。復興支援に携わった証として今も大事に使っています」
名刺交換するたびに、ポップで印象的なデザインは、自然と相手にも注目されたそう。
「今でも名刺ケースが震災や復興の話をするきっかけに。だからこそ、これからも使い続けていきたいです」
羽島自身も復興支援にまい進した日々が蘇り、初心に戻ることができるかけがえのない仕事道具だといいます。
仕事もプライベートも大切にすることの意義
座右の銘をたずねると、“仕事も遊び(プライベート)も大事にすること”と笑顔で答えてくれた羽島。URの先輩に紹介され、ジャズを習いだして十年になるそうです。
「年に数回は、音楽を趣味とするUR有志メンバーとともにジャズライブを開催します」
また、本社職員の有志によるプロジェクト「OKP(Open Kitanaka-minami Project)」を運営する羽島は、同プロジェクトのイベントでURバンドとしても出演。職員はもちろん、まちの人たちにも大いに喜ばれたといいます。
「URの職員は一芸に秀でた人が多いんですよ。楽器奏者やプロ顔負けの達人たちがいろんな部署にいます。大阪や名古屋から参戦するメンバーを入れると20人ぐらいのビッグバンド編成で、ライブをすることもあります。利益追求だけの企業ではないためなのか、私の周囲には穏やかで協調性のある人が多いですね。仕事外の有志活動などもみんなで協力して盛り上げることができる、とてもいい会社だと思います」
新人時代に強い意志で携わった復興支援から、江戸薫るまちでの“開発しない”都市再生まで、多くの“まちづくり”を仕掛けてきた羽島。まちづくりへの情熱と幅広い経験を活かし、常に挑戦を続けながら、10年後、20年後の“未来のまちづくり”に取り組んでいきます。
「社会課題を、超えていく。」ことを目指し、まちづくりを支えるURの職員たち。第2回「#まちづくりの達人」ではどのような職員が登場するのか。次回もお楽しみに。