見出し画像

阪神・淡路大震災から30年。あの日の決意から始まった、URの復興事業の軌跡(第5回)「#街ものがたり」

今から30年前の1995年1月17日、兵庫県を中心に甚大な被害をもたらした阪神・淡路大震災が発生しました。大都市直下型の地震は、建物の倒壊、ライフラインの寸断、火災なども引き起こし、住宅や街の復旧・復興が急務となりました。

UR都市機構(当時:住宅・都市整備公団/以下UR)は、地震の発生直後から、被災者支援や復旧活動を開始。その後、震災復興事業を立ち上げ、国・自治体や関係事業者との連携のもと、復興住宅の建設や市街地の再開発にあたりました。

本記事では、当時活動にあたった職員へのインタビューを通して、URが歩んだ復興事業の軌跡を振り返ります。


▼あわせて読みたい




全国から延べ7,300人の職員を動員した、地震直後の復旧作業

社内では仮設住宅建設に向けて急ピッチで打合せを行った

1995年1月17日、マグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生。兵庫県内の災害救助法適用市の死者は6,402人、住宅被害は240,347棟に上り(※)、交通、電気、ガス、水道の大部分が機能不全に陥りました。

URは災害救助法の指定地域において、賃貸住宅約2,200棟・約10万戸を管理していました。このうち、何らかの被害を受けたものは約6万戸。損壊により3団地3棟(333戸)を解体することとなりました。

倒壊した鉄道高架沿いに避難する人々

地震発生直後、URは西日本支社(当時:関西支社)に「災害対策総合本部」を、翌18日には本社に「兵庫県南部地震対策本部」を設置し、復旧活動の体制を整備。全国から延べ7,300人の職員を結集し、仮設住宅の建設、家屋の応急危険度判定、住宅の提供や入居手続きなど、連日連夜の緊急支援を行いました。
兵庫営業所で住宅管理を担当していた宮内 智秀は、当時入社4年目。地震発生直後の期間、災害対策総合本部内の「住宅復旧特別対策班」で、建物補修の受付にあたっていました。

西日本支社 京奈エリア経営部長 宮内 智秀

宮内:地震で重要とされる最初の3日間、私は新設された拠点に辿り着くことができませんでした。1月20日に到着したのですが、すでに人員や体制、食料などが整備されつつあり、自身の出遅れを感じたのを今でも覚えています。そこからは建物の補修を受け付ける担当として、膨大な量の電話に対応していました。

1995年4月入社の片岡 有吾は、地震発生時は大学4年生でした。卒業目前に経験した震災は、どのように映ったのでしょうか。

西日本支社 戦略調整室 情報活用戦略課長 片岡 有吾

片岡:当時は大阪府にあるURの団地に住んでいたのですが、地震発生時はフライパンで揺られるような感覚でした。11時頃にテレビで淡路島の北淡町の上空からの映像を見て、大変なことになったと感じたのが、当日の記憶です。その後、防災に関わる調査の一環で、現地で被災状況を調査しました。被害の大きかった長田地区の光景を目の当たりにし、「UR入社後は復興に携わりたい」と思うようになりました。

二人はその後、URの震災復興事業本部の一員として、兵庫エリアの復興事業に関わっていくことになります。

※内閣府ホームページ「災害対応資料集」より


さまざまな関係者が一丸となり、早期の復興を目指す

地震発生から3カ月が経過した1995年4月16日、URは「震災復興事業本部」を設置し、復興事業に着手。兵庫県が策定した「ひょうご住宅復興3カ年計画」に沿う形で、URのノウハウを総動員し、復興住宅の建設、市街地の整備・再開発、マンション再建など、さまざまな事業から被災地の一日も早い復興に取り組んでいきます。

震災復興事業本部の事務所が神戸ハーバーランドに移転した同年10月、宮内と片岡は同所を拠点に、復興事業に従事するようになります。

片岡:当時は入社1年目の新人でしたので、先輩について学んでいる状態でしたが、少しずつ復興住宅の設計、施工管理を担当するようになっている時期でした。主な業務は、建物の設計、工事の発注手続き、現場調整など。当時はメールやPDFが普及しておらず、図面はコピーセンターで印刷し、FAXで送付しなければなりません。膨大な図面は置き場所もないため、階段にまで並べているような状態でしたね。

宮内:「ひょうご住宅復興3カ年計画」の目標戸数は18,000戸。それだけの住宅を3年間で供給するわけですから、急ピッチで建設を進めなければならず、現場は多忙を極めていましたね。私は主に民営賃貸用特定分譲住宅を担当していました。オーナー様所有の土地に、土地や建物の名義はオーナー様のまま、URの賃貸住宅と同等の基準で賃貸住宅を建設し、復興エリアで供給する事業です。年間100棟以上もの住宅を3名の担当者で審査・契約事務を分担していたので大変でしたが、民間の設計会社等からの応援もあり、事務所は活気ある雰囲気でした。

西日本支社長(当時)も交えて一日に何度も打合せを行った

片岡:組織の垣根を越え、さまざまな事業者さんと一丸となって復興事業に当たっていたのだと思います。皆の根底にある思いは、「一刻も早く住宅をつくり、被災者の方々に暮らしていただくこと」。決められた工期を守るため、張り詰めた空気になる時期もありましたが、全員が同じ方向を目指していたからこそ活気があったのでしょう。


復興で変わる街並みと、暮らしていく人々への思い

神戸製鋼岩屋工場跡地に整備された「HAT神戸 灘の浜」

さまざまな関係者の協力により、3年間の目標戸数18,000戸を上回る復興住宅の建設が実現。その後も住宅は建設され続け、2004年4月までに20,000戸以上が供給されました。また、住宅を核としたまちづくりも進められ、対象エリアの復興は着実に進んでいきます。宮内は1998年、片岡は1997年まで震災復興事業本部に所属し、その後は西日本支社の別部署に異動しますが、変わりゆく神戸の街並みを、どのように受け止めていたのでしょうか。

宮内:私は学生時代に神戸によく通っていたのですが、歴史の趣を残す古い建物が地震でなくなり、復興を通じて画一的な光景になっていくことに、一抹の寂しさも感じました。まちの温もりというのは、一度消えてしまうと取り戻すのが難しいものです。ただし、当時は復興のスピードが最優先でしたので、両立しきれない部分があるのは仕方のないことでした。私は4年前に再び神戸を担当しましたが、復興住宅が住民の皆さまの生活と馴染んできたのを感じます。皆さまとURが一緒に手入れをしながら、少しずつ改善された結果なのでしょう。住宅というのは供給後10年程度で評価されるものではなく、時間をかけて良くしていくものなんだと、今強く感じています。

片岡:当時担当した「ルネシティ西宮高畑町」という賃貸住宅で、エントランスのデザインを任せてもらったことがあります。タイルを使ってデザインするものだったのですが、デザインの経験などほとんどないので、必死で悩みました。さまざまな年齢、立場の被災者の方々がここに住み、少しずつ前に進みながら変化していく様子を描きたいと思い、“波”や“グラデーション”のイメージを取り入れたデザインに。今回のこの取材をきっかけに思い出し、つい先日訪れたのですが、今も残るオブジェを見て、当時抱いていた復興への思いが蘇りましたし、こうして引き継がれていくことで皆さんの生活の一部を担う仕事をしていたのだなあと思えましたね。

片岡がデザインに携わった「ルネシティ西宮高畑町」のエントランス


安心・安全なハードと共に、コミュニティの力で心の居場所を

今回、宮内・片岡とは別に西日本支社 兵庫エリア経営部長の新谷依子にも話を聞きました。建築の技術職である新谷は、入社3年目に阪神・淡路大震災を経験。震災復興事業本部の設置とともに配属になり、住宅の設計に従事していました。

地震発生直後の期間は、担当していた建物の破損状況や安全の確認を設計部署と共に行なっていました。復旧作業にあたる職員も多く、西日本支社の雰囲気が大きく変化したのを覚えています。私は大学時代を神戸で過ごしたのですが、直接的な復旧作業に関われなかったのが心残りで、発災した年の4月の異動では復興事業に携わることを希望しました。

震災復興事業本部に着任してからは、住宅の設計を担うようになりました。震災以前から神戸市基本計画により大規模な整備が進められていた「HAT神戸(神戸東部新都心地区)」は、震災後の復興計画における象徴的なプロジェクトで、私は「HAT神戸 灘の浜」の担当となりました。県営住宅、市営住宅、URの住宅が一つのエリアに集う事業で、商業施設や福祉センターも入る計画でした。

整備中の「HAT神戸」

しかしHAT神戸 灘の浜は、早期復興を実現するため、住宅建設事業が区画整理事業開始のたった半年後にスタートした状況でした。平成9年度末の入居に向け、土地の整備・住宅の設計を通常では考えられないスピードで行う必要がありました。そのため、設計は複数の設計事務所により行い、彼らとの設計調整会議も2週間に1回程度のペースで実施するなど、互いに密に連携し、安全性や景観の調和を確保しながら、迅速に進めました。
設計に携わっていた方々はみな「いち早く安全な住居を提供したい」という思いが強く、その熱量に影響も受けました。私一人にできることは限られますが、少しでも心が和むような外観を取り入れるなど、皆さまの暮らしが良いものになるように、懸命に打ち合わせをする日々でした。

HAT神戸 灘の浜の広場は、憩いの場となるベンチの中に後々防災用の備品を入れることができるような設えとしました。日常と非日常の視点をつなげ、平時から災害に備える意識を持つことは、復興住宅における重要な側面との意識をもって設計されています。

四季折々の彩が楽しめる「HAT神戸 灘の浜」の広場。
神戸鉄鋼所岩屋工場の廃材を再利用した設備も配置されている。

HAT神戸 脇の浜では最近、住民の方々からのご要望により防災の機能を追加整備しました。完成後は住民の方々によって炊出しも行われており、防災におけるコミュニティの重要性も感じるところです。

復興事業を通じ、住まいにおいて最も大切なのは安心・安全なのだと、改めて感じました。建築物が十分に災害に備えられることは第一条件ですが、災害後もコミュニティが持続され、“心の居場所”となることも大切です。ハードとソフト、両方の機能を提供し、「ずっとここに住んでいたい」と感じていただく。それがわたしたちURの使命なのだと、今も胸に刻んでいます


大震災の教訓と、URが目指すべき責務

阪神・淡路大震災の復興事業を経験後、さまざまな地域で住宅供給やまちづくりに携わってきた宮内と片岡。30年前を振り返り、何を思うのでしょうか。

UR西日本支社のエントランス前にて

宮内:実は今でも、地震直後に現地へ駆けつけられなかったことを、強烈に悔やんでいます。昨今も各地で災害が頻発していますが、復旧の現場では人力が生命線。阪神・淡路大震災の時には、週の大半を事務所で寝泊まりし、中には体を壊す職員もいました。すべてが不便な状況では、体力と気力がなければ、皆さまの役に立てません。それが個人的な教訓です。だからあの日、電車が止まっていても、歩いていくべきだった。その後悔を戒めに、自宅から三宮までの30kmほどを歩く、ということを毎年夏と冬、今に至るまで続けています。そうした使命感を持つことがURの仕事をより良くし、様々な状況に対応できる力をつけるんだ、ということを後輩たちにも伝えていきたいですね。

片岡:東日本大震災の時、仮設住宅の派遣メンバーに応援で参加したことがあります。発災から3カ月後のことでしたが、現地ではまだまだ復旧が進んでいませんでした。仮設住宅でさまざまな思いで暮らしている被災者の方々を間近で見た時、「この辛さは阪神・淡路大震災にもあったのだろう」と思い、視野の狭かった当時の自分を未熟に感じました。私たちは外から“被災者”と一括りにしてしまいがちですが、一人ひとり被災された背景はそれぞれ違います。URができることは、被災者の皆様に想いを寄せ、生きててよかったと思える居場所を創っていくことです。建物の安全はもちろん、見守りあえる安心感が感じられる環境を大切にし、人と人との関係性がゆるくつながっていくまちを私たちが作っていくべきだと、二つの大震災を通じて強く感じます。

URの災害対応支援事業は、阪神・淡路大震災をきっかけにスタートしました。
あれから30年。私たちはそこで得た教訓を大切に受け継ぎながら、東日本大震災(平成23年)、熊本地震(平成28年)や能登半島地震(令和6年)などをはじめ、全国各地で激甚化する自然災害からの復旧・復興支援にあたっています。

URは、これまで積み上げてきた多くの経験と知見を活かして、次の30年も、その先もずっと、人びとが安心・安全を感じられる「まち」と「くらし」をつくっていきます。


▼阪神・淡路大震災におけるURの復旧・復興支援について

▼URが全国で取り組んできた復旧・復興支援について

▼現在、URまちとくらしのミュージアム(東京都・赤羽台)では「震災復興企画展」を開催中